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街を散策:手稲鉱山

日付: 2016年08月15日  カテゴリー: スタッフブログ

手稲にある「洋菓子店 セディ」さんより

手稲鉱山(ザッハ)P1010430  手稲で金が採掘されていたなんてビックリです。

JRバスの最終停留所より先にありますが、残念ながら現在は立ち入り禁止でした。停留所周辺の写真です。

P1010409

 

P1010410

 

 以下は「手稲区のホームページ」よりの転載です。

 15.手稲鉱山~鉱山の泣き笑い

手稲山は、かつて金銀銅などが採れる鉱山として、活気にあふれていました。最盛期には手稲の人口の約4分の1が、鉱山周辺に集まり、鉱山村といわれるほどでした。産金量全国2位を誇った時期もあり、手稲鉱山は、手稲だけでなく、わが国の発展をも支えていたのです。

■鳥谷部弥平治が発見

明治中ころ、星置川で砂金が採れたといいます。そのため、手稲山に金が眠っているという話が飛び交っていました。
明治20年代半ば、星置で農業をしていた鳥谷部弥平治(とりやべやへいじ)が、偶然、金鉱脈を見つけます。弥平治は本格的に金を掘りたいと、道庁に金の試掘を申し出ます。全財産を掛け、明治40年(1907)ころまで現在のルカ病院のあたりを中心に探していましたが、よい成果を得られず断念しています。その後、大正に入り、元道庁の技師、石川貞治が鉱業権を取得、開発に乗り出します。このとき、手稲鉱山と命名。滝ノ沢川上流の黄金沢(こがねざわ)と呼ばれるあたりの金鉱を見つけ、一時期成功しますが、その後の鉱脈探しに失敗し、資金難となり早々と閉山に追い込まれます。

■広瀬省三郎が本格操業へ

鉱業権はその後転々とし、鉱山を始めようとする人が現れないまま、昭和を迎えます。
昭和3年(1928)に広瀬省三郎(ひろせしょうざぶろう)がその権利を得、翌年、再び探鉱が始められました。滝の沢川上流付近を広い範囲にわたり探した結果、余り良い質ではないものの、豊富な量の鉱石を採掘できることが見込まれたため、選鉱(せんこう)場を建設しました。しかし、予想どおりには金が取れなかったため、その建設から半年ほどで運転を中止します。
その後、鉱石のまま売ることにし、採掘を続けたところ、思いのほか順調に進み、金の価格の高騰や、国の産金奨励策などが重なり軌道に乗り始めます。
それまで掘り出した鉱石は荷馬車で運んでいましたが、その産出量が著しく増えたため、昭和9年(1934)軽川駅(現手稲駅)近くまで、鉄索(ケーブル)を引き運ぶようになりました。昭和6年(1931)にはわずか35トンほどの出鉱量でしたが、毎年大幅な伸びを見せ、昭和9年、約3万4千トンとなっています。

■三菱鉱業が参入、最盛期へ

手稲鉱山の作業の様子を伝える、産金時代の絵はがき(茂内義雄さん所蔵) 昭和10年(1935)手稲鉱山の経営に、いよいよ三菱鉱業が乗りだします。その年の1月、三菱鉱山は広瀬と共同経営の契約を結び、12月には全権利を買収しています。
翌年までは、金がたくさん含まれている鉱石が豊富に採れましたが、その後、次第に品位低下の兆候が現れました。そのため、昭和12年(1937)現在のテイネオリンピアの裏辺りに小規模な選鉱場を建設。鉱石から金などが多く含まれている部分を分けた後 に、香川県の直島(なおしま)精錬所へ送るようになりました。
昭和13年(1938)から国策に従って「緊急産金操業」に入り、翌年11月、月当たり5万トンを処理することができる選鉱場が完成。加えて、鉱石を山奥の鉱脈から選鉱場まで運ぶため、4kmに渡る地下トンネル (星置通洞(つうどう))も掘り、大増産態勢の準備が整いました。
東洋一と言われた選鉱場(茂内義雄さん所蔵) 昭和15年(1940)から17年(1942)までの出鉱量は約185万4千トンに上ぼり、 東洋一の金山、鴻之舞(こうのまい)鉱山に次ぐ地位を築いていました。

■国策転換により規模を縮小
産金政策により大増産態勢を敷き、国内で1、2を争う金山として君臨してきましたが、昭和18年(1943)4月、国の政策が急転換し、全国の金山が整理されることになりました。手稲鉱山も金山としての操業は停止されましたが、銅も豊富に採れたため、銅鉱山として再出発することになりました。操業規模は月3万トンに縮小、人員も削減され、約340人が他の鉱山や炭鉱に移されました。
銅鉱山として操業をすることになりましたが、もともと手稲鉱山の粗鉱は金銀銅を含むものでしたので、銅だけ選び他を捨てたわけではなく金の生産も引き続き行われました。
終戦後、操業成績が低下してきたため、生産計画の見直しを迫られます。従業員の生活も困窮を極めました。道内各地で起きていたストライキに触発され、昭和21年(1946)、賃上を要求し約500人の従業員がストライキをしました。しかし、この鉱山の操業を半ばあきらめていた会社には相手にされず、何の成果もなかったといいます。
その翌年、三菱鉱業は操業規模をさらに縮小し、従業員も3分の1に減らすこととします。それ以来、出鉱量が激減し、昭和24年(1949)には2万トン台まで落ち込み、併せて銅の価格差補給金撤廃という大打撃を受け、昭和25年(1950)秋に休山状態に追い込まれています。